2014年02月26日

越後の龍 上杉謙信 その14

越相同盟を結んで北条家との抗争を一時収束させた上杉輝虎(謙信)ですが今度は、越中国で反乱と一向一揆が起こり、この対処に追われます。

松倉城は、越中三大山城にも数えられる名城で普問氏・桃井氏・椎名氏と城主が移り越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。 当時の城主 椎名康胤は、輝虎に服属して長尾景直を養子に迎えて強く結んでいたにもかかわらず反乱を起こし上杉家と対立した。
松倉城跡 本丸 .jpg
               松倉城跡 本丸

本庄繁長椎名康胤の反乱と一向一揆は、武田信玄が安心して駿河進攻する為に上杉輝虎を牽制する謀略でした。 同盟を結んだ年に輝虎は、康胤を討つ為に大軍を率いて松倉城を攻めて支城の金山城を落としたが、支援する一向一揆に悩まされ、また信玄の上野国侵攻で百日間の包囲攻撃の末に中断を余儀なくされた。 そして上野国 沼田城に入り再び離反した佐野昌綱を攻める為に下野国 唐沢山城を攻撃したが真冬の攻城は厳しく兵を退いた。 その後、北条氏康の要請に応えて武田軍と交戦して越後に帰国した。

氏康の七男 北条三郎を越後に養子として迎えた輝虎は、三郎を大変気に入り自分の名であった「景虎」の名を与え一族衆の上杉景虎として厚遇した。

この年に法号「不識庵謙信」を称しました。
そうです。 皆さんご存知の有名な上杉謙信の名が誕生しました。
幼名 虎千代から四回も改名してやっとこの名が出てきました! 長かったですね(笑)

二万八千の大軍を率いて謙信は、越中国に出陣。 数年も苦戦した松倉城や富山城などを攻撃、康胤の激しい抵抗を抑えこれらの城を落城させた。(松倉城の戦い) 落ち延びた康胤は、一向一揆と共に越中国の支配を賭けて謙信と熾烈な戦いを続けます。(越中大乱) 北条氏政からの要請に応えて佐竹義重に攻められている小田氏治を出陣して支援した。

関東の覇権をめぐって争った氏康が死去してしまい北条家の家督を継いだ氏政は、上杉家との同盟を破棄して信玄と同盟を結んだ。 結果、謙信は再び北条家と対立する。

上杉家の上野国 厩橋城と利根川を挟んで対岸にある武田家の石倉城を攻略して、武田家・北条家の両軍と対峙する。(第一次利根川の対陣) 

信玄を通じて一向一揆が越中国の上杉家の諸城を落とし勢いが頂点に達する。 謙信は、越中国に出陣し一向一揆の大軍と激戦を繰り広げ、野戦での決戦において圧勝した。(尻垂坂の戦い)  そして、富山城と滝山城を落とした。

信玄と大規模な交戦中の織田信長からの申し出を受け謙信は、織田家と同盟を結んだ。 康胤が富山城を奪取した為に謙信は、再度攻め落とす。 その後、長年争った宿敵 信玄が病死して武田軍の上洛は頓挫した。 謙信は、再び越中国に出陣し椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破、越中国の半分以上を制圧した。 たびたび蜂起する一向一揆に業を煮やした謙信は、越中国の自国領化を進める。 また、足利義昭に足利家再興を依頼される。

武田信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したといいます。 「敵に塩を送る」で有名な逸話、塩不足に困った信玄に謙信は塩を送る(創作の可能性有)など謙信は、信玄をただの強敵ではなく「宿敵と書いて友と呼ぶ!」のような友情を持っていたと思います。
戦国の名将 信玄と氏康の両雄がこの世を去った後も謙信の戦いは、なおも続きます。


posted by つきとら at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 上杉謙信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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