2014年03月06日

越後の龍 上杉謙信 その15

強敵 武田信玄北条氏康がこの世を去って上杉謙信は、次第に関東平定より上洛を意図し始めます。

洛中洛外図は京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の景観や風俗を描いた屏風絵で、その内の織田信長から謙信に贈られた狩野永徳の作品(上杉本)は、国宝に指定されている。
洛中洛外図右 (400x174).jpg
             洛中洛外図屏風(上杉本)

上杉謙信が越中国 朝日山城を攻略中に北条氏政が上野国に侵攻してくる。 上洛を目指す謙信は、上野国を守る為、関東に出陣して上野国 金山城主 由良成繁を攻撃、膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を次々に落としたが、関東七名城の金山城を落とせなかった。(金山城の戦い) そして、武蔵国の唯一の上杉方の羽生城を救援する為、氏政と利根川を挟んで対峙する。(第二次利根川の対陣) だが、増水した利根川と渡河できず越後国に帰国して数か月後に羽生城は自落した。

織田信長から狩野永徳筆の「洛中洛外図屏風」を贈られる。 元々の発注者は、足利義輝だったのですが義輝が非業の死を遂げて信長の手に渡り、そして謙信に贈られた。

氏政が下総国 関宿城 簗田持助を攻撃、再び関東に謙信は出陣し武蔵国に侵攻して後方攪乱を狙った。 北条家領内に火を放ち牽制したが、先の越相同盟の折りの不信感が影響してか佐竹家など関東諸将の救援が無い為に大軍の北条軍に仕掛けられず関宿城は降伏した。(第三次関宿合戦) 謙信は、北条方の古河公方 足利義氏を古河城に攻めるが、既に関東では上杉派の勢力を大きく低下していた。

剃髪して法印大和尚に任ぜられる。 養子の喜平次顕景(長尾政景の次男)の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。 後に景勝は、謙信の後継者として上杉家の大黒柱となります。 この年に武田信玄の後継者 武田勝頼の軍と織田信長徳川家康連合軍が激突し、武田軍は大敗した。(長篠の戦い)

信長に追放された将軍 足利義昭は、毛利家に身を寄せて再び信長包囲網を築く為に御内書を各地の大名に出し、そして上杉家・武田家・北条家を仲介して甲相越一和を試みる。 この頃に謙信は、信長との戦いで苦戦していた本願寺顕如(一向一揆の指導者)と和睦、これによって信長との同盟が破綻した。 信長は一向一揆がほぼ占領していた越前国に侵攻し、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求める。 越中国で散々に謙信を苦しめていた一向一揆が顕如との和睦により、越後国から越前国を通る上洛の道が開かれ始めます。 甲相越一和は成立しませんでしたが、信長包囲網の構築は成功します。 義輝から信長討伐を求められ謙信は、上洛を急ぐ事になります。

大量に鉄砲を保有している一向一揆は、団結力も強く謙信にとって信玄・氏康に次ぐ強敵だったようです。 この厄介な一向一揆と和睦になり謙信は、加賀国・能登国に兵を進め上洛を目指します。 そして信長包囲網を受けてもどんどん強大化していく織田信長と敵対していきます。 最後の強敵 信長との戦いに謙信はどのような思いを持っていたのでしょうか。
次回に続きます。

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2014年02月26日

越後の龍 上杉謙信 その14

越相同盟を結んで北条家との抗争を一時収束させた上杉輝虎(謙信)ですが今度は、越中国で反乱と一向一揆が起こり、この対処に追われます。

松倉城は、越中三大山城にも数えられる名城で普問氏・桃井氏・椎名氏と城主が移り越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。 当時の城主 椎名康胤は、輝虎に服属して長尾景直を養子に迎えて強く結んでいたにもかかわらず反乱を起こし上杉家と対立した。
松倉城跡 本丸 .jpg
               松倉城跡 本丸

本庄繁長椎名康胤の反乱と一向一揆は、武田信玄が安心して駿河進攻する為に上杉輝虎を牽制する謀略でした。 同盟を結んだ年に輝虎は、康胤を討つ為に大軍を率いて松倉城を攻めて支城の金山城を落としたが、支援する一向一揆に悩まされ、また信玄の上野国侵攻で百日間の包囲攻撃の末に中断を余儀なくされた。 そして上野国 沼田城に入り再び離反した佐野昌綱を攻める為に下野国 唐沢山城を攻撃したが真冬の攻城は厳しく兵を退いた。 その後、北条氏康の要請に応えて武田軍と交戦して越後に帰国した。

氏康の七男 北条三郎を越後に養子として迎えた輝虎は、三郎を大変気に入り自分の名であった「景虎」の名を与え一族衆の上杉景虎として厚遇した。

この年に法号「不識庵謙信」を称しました。
そうです。 皆さんご存知の有名な上杉謙信の名が誕生しました。
幼名 虎千代から四回も改名してやっとこの名が出てきました! 長かったですね(笑)

二万八千の大軍を率いて謙信は、越中国に出陣。 数年も苦戦した松倉城や富山城などを攻撃、康胤の激しい抵抗を抑えこれらの城を落城させた。(松倉城の戦い) 落ち延びた康胤は、一向一揆と共に越中国の支配を賭けて謙信と熾烈な戦いを続けます。(越中大乱) 北条氏政からの要請に応えて佐竹義重に攻められている小田氏治を出陣して支援した。

関東の覇権をめぐって争った氏康が死去してしまい北条家の家督を継いだ氏政は、上杉家との同盟を破棄して信玄と同盟を結んだ。 結果、謙信は再び北条家と対立する。

上杉家の上野国 厩橋城と利根川を挟んで対岸にある武田家の石倉城を攻略して、武田家・北条家の両軍と対峙する。(第一次利根川の対陣) 

信玄を通じて一向一揆が越中国の上杉家の諸城を落とし勢いが頂点に達する。 謙信は、越中国に出陣し一向一揆の大軍と激戦を繰り広げ、野戦での決戦において圧勝した。(尻垂坂の戦い)  そして、富山城と滝山城を落とした。

信玄と大規模な交戦中の織田信長からの申し出を受け謙信は、織田家と同盟を結んだ。 康胤が富山城を奪取した為に謙信は、再度攻め落とす。 その後、長年争った宿敵 信玄が病死して武田軍の上洛は頓挫した。 謙信は、再び越中国に出陣し椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破、越中国の半分以上を制圧した。 たびたび蜂起する一向一揆に業を煮やした謙信は、越中国の自国領化を進める。 また、足利義昭に足利家再興を依頼される。

武田信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したといいます。 「敵に塩を送る」で有名な逸話、塩不足に困った信玄に謙信は塩を送る(創作の可能性有)など謙信は、信玄をただの強敵ではなく「宿敵と書いて友と呼ぶ!」のような友情を持っていたと思います。
戦国の名将 信玄と氏康の両雄がこの世を去った後も謙信の戦いは、なおも続きます。
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2014年02月25日

越後の龍 上杉謙信 その13

宿敵 武田信玄が駿河国今川家に侵攻した事により上杉輝虎(謙信)を取り巻く状況が大きく変わってきます。

上杉謙信3.jpg
                 上杉謙信像

織田信長に擁立されて新しく将軍になった足利義昭からも上杉輝虎は、関東管領に任命されます。 突如、椎名康胤武田信玄に通じて反乱を起こします。 輝虎は、越中制圧の為に長年対立していた越中国の一向一揆と戦った。(放生津の戦い) これを機に不満を持っていた揚北衆の本庄繁長は、信玄の誘いに乗り謀反を起こします。 これでは越後国に帰国せざるを得ず輝虎は、まず繁長を支援する出羽国 尾浦城主 大宝寺義増を降伏させます。 この謀反に合わせ武田軍は上杉家の北信濃 飯山城を攻撃するが撃退され、繁長は孤立無援になります。 本庄城を包囲されよく凌いだが限界にきて繁長は、蘆名盛氏伊達輝宗の仲介を受けて嫡男 本庄顕長を人質として差し出して帰参を許された。(本庄繁長の乱) この戦いで上杉家は、出羽庄内地方を手にする

甲相駿三国同盟を破って信玄は、今川家に侵攻して本拠地 駿河城を攻略する。この事により北条氏康は、小田原城が危うくなり信玄と激しく対立します。 そして、東に里見家・北に上杉家・西に武田家と三方向に敵を抱え苦くなり氏康は、輝虎に和睦を請いました。 これに対し輝虎は否定的であったが臼井城の戦い以降、多くの関東諸将が北条方へ降り、西上野の武田家の支配、常盤国 佐竹義重が関東進出を狙い輝虎と対立、直臣 北条高広が北条方へ離反、などにより関東での上杉家の所領が著しく減っていました。 これに加え度重なる関東出兵で疲弊した家臣達からの不満と北条氏照に攻撃包囲されている上杉方の関宿城を救う為に輝虎は、和議を受けるか考えます。 そして、勢力拡大している信玄への牽制もあって関東を賭けて激しく争っていた氏康と同盟を結びました。(越相同盟)

この同盟によって氏照は関宿城から撤退し、両家の勢力範囲が定められて上野国の北条方の豪族は輝虎に降り、輝虎は北条氏の擁する足利義氏を古河公方として認め、北条家は輝虎の関東管領を認めた。 そして、高広は帰参を許され、上杉家家臣 柿崎景家の子 晴家が人質として北条家へ、氏康の七男 北条三郎(上杉景虎)は輝虎の養子となった。 しかし、反北条勢力の関東諸将は輝虎に不信感を抱き、里見家は上杉家との同盟を破棄して武田と同盟し北条家と敵対し続けた。

輝虎は、将軍 義昭の入洛を祝し、信長に鷹を贈っている。

輝虎としては関東管領として関東平定を進めたかったのでしょう。しかし、劣勢で厳しい状況がこれを許さず、ぐっと我慢して同盟に応じたように思います。 それから輝虎は、信玄の執拗な調略で越中国の制圧に忙殺されていきます。
では次回に続きます。
posted by つきとら at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 上杉謙信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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